五輪中の停戦どこへいった?

皇紀2684年(令和6年)8月11日

 台風五号は、発達しながらわが国の東を北上し、明日には暴風域を伴って東北地方にかなり接近、或いは上陸する恐れがあります。暴風や高波、土砂災害、河川の増水や氾濫、低い土地の浸水に警戒してください。

 地震の発生に対する警戒が続く中、お疲れとは思いますが、これが自然であり、私たち日本人は、常に自然への畏怖の念を忘れてはいけません。

 なお本日午前九時、公式ブログと共に以下の公式動画チャンネルで新しい動画が公開されます。「そう言えば、あそこどうなった?」という興味をそそる内容になっていますので、是非ご覧ください。

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ウクライナの奇襲、ロシアに衝撃 越境攻撃は10日で5日目、緊張続く

ウクライナ軍が開始したロシア西部クルスク州への越境攻撃は10日で5日目に入った。ロシア軍は侵入したウクライナ兵の掃討作戦を展開し、州内では緊張状態が続くが、ロ…

(産經新聞社:産経ニュース)

イスラエル軍が学校を空爆、90人死亡とガザ当局

パレスチナ自治区ガザ地区の学校に対してイスラエル軍が空爆を行い、パレスチナ人少なくとも90人が死亡した。地元当局が明らかにした。…

(CNN.co.jp)

 さて、夏季五輪パリ大会(パリ五輪)もいよいよ競技最終日です。わが国の代表選手たちの頑張りで、金メダルの獲得数が国外開催で最多となりました。おめでとうございます。

 しかし、五輪大会が「平和の祭典」とは口先三寸もいいところで、露国が完全に参加を拒否された一方、ウクライナもイスラエルも参加を許されています。この件は、既に言及しましたが、長崎市の平和祈念式典(九日)に於ける欧米各国駐日大使の態度といい、もはや「自分たち(選民)以外の人類を総じて莫迦だと思っているに違いない」と思えるものです。

 五輪大会開催中は、たとえ戦争・紛争の最中でも一旦停戦するはずではなかったでしょうか。あの綺麗事はどこへ行ったのでしょう。

 いや、左翼が政権を握っている仏国、左翼が市長のパリ市自体がこの有り様ですから、綺麗事で平和や人権を語ってきた左翼の所業は結局、自分たちの都合によって「壊していい平和」と「無視していい人権」があるようです。

 なぜウクライナを叩き出さないのでしょう? なぜイスラエルをつまみ出さないのでしょう?

 この「欧米の都合」と「欧米の不都合」に弄ばれたのが、大東亜戦争へ突入していった大日本帝國でした。あの頃から人類は、何一つ進歩も調和もしていません。

 それもわが国の左翼が「開戦やむなしの苦境」と「日本人大虐殺」をなかったことにして戦争と平和を語ってきたせいです。後世に公正と公平を託すべく、私たちはいわゆる「自虐史観」を捨て去らねばならなかったのです。

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『五輪中の停戦どこへいった?』に1件のコメント

  1. ナポレオン・ソロ:

    240811-4 我々は「自虐史観を棄てられなかったのです」
    今日は ソロです。
     掲題のブログ主のコメントですが、私はそうではありません、何故なら、私の郷里の鹿児島では、そう言う話は譬え日教組の専従をやって居た教師でも、授業で話さなかったし、逆に、そうした話をしたと言う話が生徒から挙がったら、職員室で留守上げの目に遭うとは、私の担任の先生の弁でした。 

    だから、私の世代は、戦争史が静かなブ-ムで、少年週刊誌には毎週、戦闘機の展開図と、性能一覧表の表示が有ったので、友達間で情報交換をしていましたね。 後で解った事ですが、商船気高専に入学して、山口で寮生活をしたのですが、其処でも鹿児島市出身の、戦史マニアが居て、日本海軍の全海戦を諳んじているのには、吃驚しました。

    彼は其れだけでなく軍歌も、分厚い軍歌集を持っていて、全て本を見ないで歌えましたし、その本に載って居ない歌迄、披露してくれましたのです。斯う言う趣味を持っているのは俺達おなかモノだけじゃないんだと嬉しかったですね。 

    私が小学生の低学年の時分に通学路の途中に遭った墓地の墓碑に、戦死の様が刻んである墓が幾つも有ったので、其れを読んでいたら、「坊主、読めるんか?」と声がしたので、顔を上げると、50歳位の伯父さんが、立って居ました。

    この人はフィリピンのバタ-ン半島攻略戦に参加した生き残りで、私が詠んでいた墓碑も内容も同じでしたので「おじさんもこの戦いに参加したの?」と訊くと、嬉しそうに「その通り、墓の主は俺の親友だ」と明かしました。

    それ以後は、墓の前を通る度に伯父さんから声を掛けられ話を聴かせてくれましたが、詳細は地図も無いし、名前だけでは兵器のサイズも形も解りませんから、それを言うと次には手書きの地図や写真を持ってくる熱の入れよ様だったので、私も毎日痰楽しみにしていましたが、或る日からプッツリ居なくなりました。

    心配になったので、通りがかりの同じ位の歳のおばさんに、訊いたら「具合が悪くなって、病院に入院したけど、助からなかった」との衝撃的な話を聞かされて、茫然でしたが、伯父さんから教えて貰った事は、戦争の事よりも日本人の生き方の問題の方が多かった

    だから、私に残ったのは、如何に戦争という理不尽な世の中を自分の中に取り込んで、理解し、自分形に対処する事で、自分も戦争で人を殺す事を納得して来たと言う、後で考えたら、この瞬間だけしか聴けなかった話を聴けたのは、私の人生の財産になって居ます。

    ですから、私には自虐的な戦後史観等と云うものは存在しません。 加えて、一山越えた知覧には陸軍の特高基地があったし、海を隔てた向こう側には海軍の鹿屋特高基地が在って、私の父親は17歳で海軍の航空無線士だったので、明日は出撃と言う特高兵士との前夜の話を時々していましたが、辛い思い出なので殆ど断片的で覚えていませんが。

    然し此処でも、特攻兵士の「我一死を以て、護国の鬼とならん」と言う祖国の未来を守り抜こうと言う「男の使命感と愛郷心」を見せられて、戦争の理不尽さと共に「義は命よりも重し」という薩摩隼人の伝統の教えを思い出しましたね。

    斯う言う、育ちを経験した世代も居るのです。 因みに私は昭和29年生まれの70歳の歯牙無いGGY ですし、オマケに人工透析を週3回受けねば生きて行けない1級障碍者ですが、先達と同じ様に、日本の未来の為になる事を何か死ぬまでやっれ行こうと言う気概は失わぬ様にしたいです。