文科省の外国人留学生利権
本日は、紀元節です。神武天皇御即位の日を太陽暦(基督教のグレゴリオ暦はこの一種)に換算し、明治六年の太政官布告で二月十一日に定められました。
皇紀二千六百八十四年を迎え、ますますわが国が栄えますよう祈念します。皇尊弥栄。
そこへ、わが国の繫栄に水を差すような文部科学省の動き。そもそも旧文部省と旧科学技術庁の対立が今なお見え隠れし、前川喜平元事務次官が転落するに至った以前から私は、文科省と環境省の廃止を唱え続けてきました。
特に文科省は、各都道府県・市町村の教育委員会がありながら「中央から偉そうに」つまらない教育要領などをバラ撒くだけで、日本教職員組合(日教組)と全日本教職員組合(全教)を排除しないどころか後援するような方針を勝手に決める公害です。
せいぜい内閣府の外局として、金融庁や消費者庁らと並んで教育庁、科学技術庁、文化庁にでも解体(再解体)、改組してしまえばよいでしょう。私たち国民は、前川氏のような「三流官僚」に用はありません。
三流のくせにそれなりの利権を抱えているから問題を起こすのであり、その一つが大学の許認可利権であり、もう一つが教育経費の采配利権です。
後者は、何だかんだわめいたところで財務省主計局から取ってくるのですが、私立学校振興助成法という悪法がこの利権の法的根拠であり、いわゆる「特色のない低偏差値校」が外国人留学生を大量に受け入れ、その経費の最大半額を助成させることに、むろん文科省は目を瞑っています。
既に千五百人近い行方不明者(違法滞在化)を出した大学の経営陣が訪中までして中共人留学生を獲得し、運営を維持させているような始末で、このような大学の認可を取り消さないのは、教育経費の采配利権を文科省が手放したくないからです。
とんでもない違法行為を垂れ流し続ける学校法人を、自分たちの利権のために温存した挙げ句、さらに奨学金の対象外国人を拡大させようとするなど以ての外ではありませんか。
日本学生支援機構は、文科省所管の独立行政法人であり、前身の日本育英会ら五団体の合併で誕生する以前から、実は外国人留学生に対する過剰優遇を指摘され続けてきました。
それを移民政策と一体でさらにやろうというのですから、皆さん、どうか反対してください。
皇紀2684年(令和6年)2月11日 10:33 PM
今回も ずいぶん以前に書いた文章ですが、どうかお許しください。
五木寛之氏の小説『親鸞』は 沢山の人に読まれたらしいので、
ゲンちゃんも読んでみたいと思っていました。
親鸞という男とその本願他力の信心に関して
新しい解釈を得られるかと期待しておりました。
来栖宥子様のブログ『来栖宥子 午後のアダージォ』にて
小説『親鸞』のおしまいのあたりを わずかな部分ですが 拝読できました。
その内容は しかしながら、ゲンちゃんの期待どおりとは 言い難いようでした。
以下に 引用させて頂きます。 来栖宥子様のブログ『来栖宥子 午後のアダージォ』
http://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/2f8bb4cc42623877f944c9766b45635a から (引用始まり) 五木寛之著『親鸞』
「もし嵐で船が難破したとする。逆巻く波の夜の海で、
おぼれそうになっているときに、どこからか声がきこえた。
すくいにきたぞ!おーい、どこにいるのだー、と、その声はよんでいる。
さて、そなたならどうする、平次郎どの」
親鸞にきかれて、平次郎はこたえた。
「ここにいるぞ!、おーい、ここだ、ここだ、助けてくれー、と声をあげるでしょう」
「そうだ。真っ暗な海にきこえてくるその声こそ、阿弥陀如来がわれらに呼びかける声。
その声に応じて、ここにおります、阿弥陀さま! と
こたえるよろこびの声が南無阿弥陀仏の念仏ではあるまいか。
この末世にわれらが生きるということは、春の海をすいすいと渡るようにはいかない。
わたし自身も、これまで何度となく荒れ狂う海の波間で、
自分の信心を見失いそうになったことがある。(略)
それが他力の念仏であろう。(略)
いただいた念仏、というのは、そういうことではないだろうか」
「では、わたくしどもに呼びかけられる阿弥陀如来のその声は、
いつでも、だれにでも、きこえるものなのでしょうか」
(略)
「いや」
親鸞は首をふった。
「いつでも、だれにでも、というわけにはいくまい。
波間にただようわれらをすくわんとしてあらわれたのが、
阿弥陀如来という仏だと、一筋に固く信じられるかどうかにかかっているのだ。
信じれば、その声がきこえる。信じなければきこえないだろう」
「では、まず、信があって、そして念仏が生まれるということでございますか」
と、頼重房が鋭い声できいた。
「そう思う」
と、親鸞はいった。
「しかし、目に見えないものを信じるということは、まことにむずかしい。
しかも、いったん信をえても、
それはしばしば揺らぐものだ。
そのとき念仏が、見失いそうになった信を呼びもどしてくれるのではないか。
信が念仏を生み、念仏が信をささえるのだ。いまのわたしには、それしかいえない」
(引用終わり)
ゲンちゃんにとっては、親鸞とその本願他力の信心に関して、
五木寛之さんの解釈は 納得し難いものです。
とりわけ、次の一節。
「阿弥陀如来という仏だと、一筋に固く信じられるかどうかにかかっているのだ。
信じれば、その声がきこえる。信じなければきこえないだろう」
ゲンちゃんは 違う事を 思っています。
ゲンちゃんは メルマガで「人は神を受けている」と何度も書きました。
そうとしか思えないからです。しかしそれは、
ゲンちゃんが神を「一筋に固く信じる」事が出来たから ではありません。
そんな事が出来るなんて 到底 思えません。
そんな日がいつか来るかもしれないとさえ 思えません。
ゲンちゃんは以前のメルマガに 次のように書きました。
「宗教からの自由を憲法に明記し得た事は
如何なる宗教それ自体よりも尊い事です」と。
人は 宗教的真理によってこそ あらゆる宗教から自由に成り得るのです。
あらゆる束縛から自由に成り得る と言っても同じ事です。
ここで再び 椎名麟三の言葉を 引用します。
「たとえ人生に解決がなくても、助けてくれ!と叫ぶことはできる、
それが文学なんだとドストエフスキーが教えてくれたのだ。」
「今や私は神を信じ、キリストを信じている。
だから救われてしまって、私 絶望の作家は
かえって困っているのではないかと思われているらしいが、
現実的には少しも救われていないのだから、ご心配の向きはご安心願いたい。
カネに悩み、女に悩み、左の目にモノモライが出来た事に悩み・・・
どこを調べてみても、
私が救われていると言える徴候は全く見当たらないのである。」
「手は虚空を掴み、死にたくないと叫んで、じたばたして、それでも安心して、死ねる」
「クリスチャンは、この世界が唯物的な世界であっても、
唯物的な法則において充分に生きる事が出来る。
それが出来るのは、ほんとうは自分が救われている事を知っているからだ。
(いいかえれば、ほんとうに救われていなければ、
救われていない現実を充分に生きる事は出来ないのだ)
だから現実の諸問題へ、痙攣や悲壮も無く、ユーモアを持って、
自分のほんとうの問題として関わる事が出来るのだ。この点になると、
皆さんがたの理解に困難であると思われるが、
私の力ではもう及び難いのである。」引用終わり。
椎名麟三は、牧師から洗礼を受けて数ヶ月後のある日、
聖書のイエスの復活のくだりを読んで、回心を経験してしまったという。
「復活のイエスの姿は、今では私の肉体の中に住み付いてしまっているようだ」
とまで語るのである。更に、
「キリストを信じている今もなお救われていない自分を知っている、
にもかかわらず、人間はキリストにおいて救われてあるのだ。
キリストを信じない人でさえ、実はキリストにおいて救われてあるのだ。」と。
「実はキリストにおいて救われてあるのだ。」
この確信が到達した 安らかさは、人間の限界に阻まれて
「ほんとうのもの」には達し得ない人間の現実を
そのままで受け容れられている安らぎであると ゲンちゃんは感じています。
この安らぎから 勇気が生まれて来る。
失敗しても、阻まれても、生活と人生に何度でも立ち向かう勇気。
自分に可能な愛はささやかでも、
そのささやかさに精一杯生きる事を喜びと感じられる幸い。
いつのまにか、人間の限界が、人間の愛を 自由を
「ほんとうのもの」にしてくれるのである。
この不可思議な逆説は、ただ象徴的にしか語り得ないものである。
死が 生の深みを開示する働きを為し、虚無が恩恵の器となるのである。
ゲンちゃんが 今 椎名麟三を再び持ち出す理由は、
彼の信仰の告白には 宗教的真理が在ると思われるからです。
「復活のイエスの姿は、今では私の肉体の中に住み付いてしまっているようだ」
とまで語りながら、同時に、
「どこを調べてみても、私が救われていると言える徴候は全く見当たらないのである。」
とも言い、
「キリストを信じない人でさえ、実はキリストにおいて救われてあるのだ。」
とも言うのです。
神の 人への関与は、人にとって
限りなく直接的であると同時に、限りなく間接的なものなのです。
「在る」と「無い」とが 同時に成就しているのです。
「救われている」と「救われていない」とが 同時に成就しているのです。
科学的真理においては成立し得ない矛盾が、宗教的真理においては、成立し得るのです。
例えば、全ての人は、生きるために生まれる、
しかし、誕生の瞬間から、常に、死なねばならぬ者として生きているのです。
人は、宗教的真理の関与によって、苦しい矛盾を「本当に」受け入れる事が出来るように成ります。
いえ、人が受け入れるというよりも、人は、宿命的な 存在の矛盾の中に居ながら、
それなのに、存在を誕生させる 根底的かつ超越的な恩恵によって 受け容れられている事に 気づかされるのです。
ゲンちゃんは以前「信仰とは、特定の宗教を信じる事ではなく、人生を自分自身を 受け容れ 肯定する事である」と書きました。
「人は自分自身を 人生を 受け容れ得るか否か 肯定し得るか否かを 問われています。
それは人が自由だからであります。神を受けているからであります。愛が望むからであります。」と。
受け容れる事の出来る理由 肯定できる理由が有るからではなく、
真逆に、「何の理由も無いのに 受け容れる事が出来る 肯定する事が出来る」
だからこそ、受容は根底的な受容であり、肯定は超越的な肯定なのです。
人にとって、宗教的真理の関与によって与えられる真の受容と肯定は、恩恵であり、無償なのです。対価を払って得るものではない。理由など無いのです。
「念仏には無義をもって義とす」親鸞にとって、念仏による救いは、どこまでも謎であり、謎のままなのです。
しかしその謎こそが、謎のままで、彼を限りなく受容し、彼を限りなく肯定してくれるのです。
それに気付かされたからこそ、「本願他力」なのです。
ゲンちゃんは 言わねばなりません。
人が救われるために「一筋に固く信じられるかどうかにかかっている」神
人がどうしても信じねばならぬ神
そのような神は 神ではありません。
阿弥陀如来という名 イエス・キリストという名 釈尊という名
どのような名であれ、歴史においてであれ神話においてであれ、
「人が信じねばならぬ神」は 偶像に過ぎません。
(人は あらゆる神話の神々を超えた神の中の神
名を持たぬ神を 受けている。
もし そうでないならば、人は如何なる神話の神をも受けられないし、
如何なる偶像さえも、
受けられなくなるでしょう。)
宗教的真理は あらゆる宗教から(あらゆる束縛から)人を解放してくれます。
神が 神ご自身から人を解放するからです。神は人を支配しません。
神だけが 人に 全的な自由を与えています。
だから人は 神を 受け容れる事も拒む事も 出来ます。
神に対する自由 それこそが、人の 神によって与えられた尊厳なのです。
真正の神は人を愛し 人に自由を与えています。
神すなわち愛を 愛する者になるか それとも 愛を拒む者となるか
その自由を人は いつも 一度も 奪われた事はありません。
人は 人が受けている神を 拒む事が出来ます。
愛を愛さない者として生きる事が出来ます。
それでも人は 愛されています。
自由なる者として愛に背いてなお、愛されています。
ゲンちゃんがメルマガで何度も何度も
「恩恵」「人は神を受けている」と書かずにはいられなかった理由であります。
親鸞に戻ります。親鸞は法然に出会って、
「この人こそ、今 ここで 既に救われている人だ」と確信した、
確信させられてしまったのだろうと ゲンちゃんは思います。
法然との出会いこそが、真の救済との出会いだったのだろうと思うのです。
法然の内に生きている救いの力は、
親鸞の感性にも理性にも これまでに親鸞自身が経験した何物にも優る
強く確かな現実であったのでしょう。だからこそ、
法然という人と法然の言葉を どこまでも受け容れる事が出来た。
「法然の行く所が地獄でも付いて行く、法然に騙されて地獄に落ちても良い」
そう断言する親鸞にとって、極楽浄土とは、
浄土三部経に描かれている場所ではない。
空想や願望による 在り得ない絵空事 死後に往く空間ではなく、
法然と共に居る 今ここが 極楽浄土になったのです。法然の中に、
阿弥陀如来の本願という不可思議な名で呼ばれる救済の力が 生きているからです。
では法然とは、特別な人であったのか 否と ゲンちゃんは答えます。
比叡山でも『知恵第一の法然』と称賛された、仏教においての「理想的な人」。
しかしゲンちゃんにとっては、人は どんな人も
人以上の者でも人以下の者でもありません。人は人でしかありません。
自身を救う事など出来はしません。
法然は 9歳の時に、土地をめぐる争いから、明石源内武者貞明の夜討ちによって父を殺された。父は苦しい息の下から息子に言い聞かせた。
「私の敵討ちなど思わず、仏の道を修めて僧に成れ」と。
ゲンちゃんは思うのです。「法然は父親の遺言に従って 傑出した僧と成り得た。
では、父上の敵を討ちたいとの念願を 敵への怒りと憎悪とを 如何にして捨て去る事が出来たのだろうか?」と。
時代背景からして、優れた少年であればあるほど、生涯をかけても 父上の敵を討ちたいと念願するのが当然であったろう。
如何にして脱却できたのだろうか? それをこそ知りたいと思って、ゲンちゃんは古書にあたってみたのですが、
答えは得られませんでした。おそらくは、法然も 苦しんだであろう。苦しみつつ、それでも、仏僧の道に邁進するうち、
いつしか、妄執から救われている自身に気が付いた。気づかされた。
そして、この救いこそが、「本願他力」のはからいによるものなのだ それ以外ではありえないのだ と感じられたのでしょう。
自力で脱却したのでもない、自力を捨てたのでもない。浄土に生まれるとは、このような事なのだ と。
その不可思議な、法然の身から離れぬ「本願他力」の喜びが 親鸞を捉えてしまったのだろうと ゲンちゃんは思うのです。
ゴッホの絵「ジャガイモを食べる人たち」明日も労働をするために
ただそれだけのために 夜 粗末な食事を摂る人たち。
ゴッホの眼には その人たちの中に 救いの力が働いている事が 見えた。
見えたとおりに描ければ それだけで ゴッホ自身も救われてしまう
救われている人の貧しい現実。それがゴッホを終生 捉えていた。
貧しいだけの人の中に透けて見える 限り無い豊かさに ゴッホは捉えられていた。
法然も親鸞も そしてゴッホも 同じ事を経験したのだと ゲンちゃんは思います。
人の中に生きている恩恵に出会って 捉えられたのだと。
信仰とは 自力で思い込む 信じ込む事ではありません。
気付かされる事 既に受けていて失う事の無い恩恵に気付かされ
改めてみずから受けなおす事であります。
受けなおす事もまた自力の行為ではなく、喜びに身を委ねる事であります。
そうなる時が来るのです。その時には、
人がみずから望み得る以上の事 人が望み得ぬ事が 人の身に起きるのです。
それは人の如何なる宗教をも超える 恩恵の出来事なのです。
宗教こそは 宗教それ自体を限り無く超えている恩恵を
喜びによって告知せねばなりません。
宗教それ自体を絶対化して
「この宗教 この神を信じない者には救いは無い」などと語る宗教は、
人の愚かさを出るものではありません。
ゲンちゃんがメルマガを書く こんなささやかな事のためにさえ、
ゲンちゃんは 言葉を待っています。
言葉が来てくれる時を 待っているのです。
いくら書きたいと望んでも、言葉が来てくれるその時までは、
ゲンちゃんには 書けないのです。
時を超える時が 約束されていたかのように来て 人の存在の目的が感知される。
その時には 人の内には信仰が
その人自身よりも確かで強いものが 息づくのです。
人が どんなに熱心に 誠実に 最大限に努力しても
人の内部には見出す事の出来ぬ 救いの力。
それは人の外なる者なのに、人の内に関与するのです。
超越の者が 超越者のままでありながら、同時に 根底の者となるのです。
人を愛し、人に自由を与える者が、人と共に在るのです。拝。