日本は「そびえたつ地獄」

皇紀2670年(平成22年)7月26日

 私が生まれて初めて劇場で鑑賞した映画は、昭和49年製作・50年日本公開の米国映画『タワーリング・インフェルノ』(ジョン・ギラーミン監督)でした。当時もうあと1ヶ月ほどで3歳になろうかというころの私でしたが、高層ビル火災のとてつもない映画をやたら広くて何やら埃っぽい場所で観たと覚えており、のちに親の記憶と照らし合わせて本作だったと分かったのです。題の日本語訳は「そびえたつ地獄」だと、かつて『日曜洋画劇場』で淀川長治氏が解説しておられたのもよく覚えています。

 ディザスター映画(日本ではパニック映画)の金字塔というべき本作は、前作『ポセイドン・アドベンチャー』の製作者アーウィン・アレンによって企画され、20世紀フォックスとワーナーという二大メジャーが史上初めて手を組み、巨費を投じて作られました。

 よって出演陣が豪華を極め、消防士役のスティーヴ・マックイーンと建築設計士役のポール・ニューマンという二大看板スターをどう表記するかでもめた(片方を先に表記するわけにもいかず、結局2人同時に左右・上下を工夫して表記した)そうです。

 桑港(サン・フランシスコ)に完成した138階建ての超高層ビル「ザ・グラス・タワー」は、社長(『戦場にかける橋』のウィリアム・ホールデン)がその世界一の高さにこだわり、彼の娘婿(『将軍 SHOGUN』のリチャード・チェンバレン)は建築予算の着服を企て、電気系統の手抜き工事で81階備品室から出火してしまいます。それは今まさに、完成披露パーティーが始まろうという時でした。

 設計士の恋人(『俺たちに明日はない』のフェイ・ダナウェイ)や、実は人を騙せない老詐欺師(『グリーンマイル』の映画上映シーンにも登場するタップの天才フレッド・アステア)と彼が狙う富豪の未亡人(『慕情』でホールデンと共演しているジェニファー・ジョーンズ)、招かれた上院議員(『ブリット』でマックイーンと共演しているロバート・ヴォーン)らが135階のプロムナードルームに集まっているというのに、火は次第にビルを覆い始めます

 本作を観て消防士になったという方が大勢おられたほど、彼らの「人のため」にはたらく姿はまぶしいほどで、一方、現世の自分のことしか考えずに生きている娘婿が、我先にと無理に避難しようとして墜落死するという展開(現世個人主権という革命思想の顛末)は、この手の作品の定石であるがゆえに当然です。

 非常に衝撃的な展開を見せたのは、あの未亡人が小さな子供たちを抱きかかえながら展望エレベーターで避難しようという時、通過階の爆発的火災でワイヤーが切れ、彼女は子供たちを(墜ちそうな自分に代わって守ってくれるであろう)他の人に渡そうととっさに両手を放し、外れた窓枠から墜落死してしまうという場面でした。

 公開時にはこの展開に対する批判が米国内で殺到したと何かで読んだ事があります。確かに彼女の死はあまりに哀しいにしても、彼女が子供を守ろうとする人間の本能に基づき、たとえ他人の子に対してさえ生命の継承を保守しようとしたこと(天皇陛下と祖先祭祀の実践)は、実に崇高なのです。

 それにしましても、完成披露パーティーで大盤振る舞いをしながら建築予算はビルの高さに見合っていなかったという本作のくだりが、現下の日本そのものに見えて仕方ありません。

 子ども手当などでつまらぬバラマキをしながら、実態は官僚主導の事業仕分けでケチな歳出削減をし、そのくせまともな予算編成もできずに「政権交代」の任に見合っていなかった民主党は、まさに「ド素人集団が政治主導をうたって威丈高にそびえたつ地獄」です。

 私たちは早く逃げた出したほうがよいのでしょうか。或いは、マックイーンのように自らの退路を断ってでも消火すべきでしょうか。ラストシーンで彼は、懸命に消火を手伝った設計士にこう言います。「ビルの建て方を教えてやる」「いずれ電話しろ」と。

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『日本は「そびえたつ地獄」』に11件のコメント

  1. 一言主:

    幼い命を救うための自己犠牲が何で「天皇陛下と祖先祭祀の実践」になっちゃうのでしょう。妙な政治思想にどっぷりつかると、何でもかんでもその比喩にみえてしまうのですか。いくらなんでもこじつけ過ぎです。

  2. ブログを拝見しました 。:

    すてきなブログですね  ^^ また来ます。応援ポチ ♪

  3. knnjapan:

     「祭祀」を「政治思想」と思っておられることが大間違いです。どういうことなのか、もう一度よく考えてみて下さいませ。

  4. matu:

    祭祀は、命のつながりを尊ぶもの。祖先、今そして子孫・・とつながる命。木々や動物達の命、山河や国の命・・・。当たり前のように思う方がいるかもしれませんが、命を授かることは簡単ではありません。つなげていくことは、それ以上です。祭祀はそれを尊ぶのですね。

  5. 三言主:

    >「祭祀」を「政治思想」と思っておられることがそんな事一言も書いてありませんよ。あなた政治よりも先に日本語を覚えられたらいかがですか?

  6. knnjapan:

     ではお尋ねします。なぜ私が「生命の継承=祖先祭祀」を書いて、あなたはこれをわざわざ指し示して「妙な政治思想」とお書きになったのでしょうか。是非とも明瞭な日本語でお教えいただければ幸甚に存じます。

  7. 寄り道:

     無理矢理映画から政治思想に繋げるから破綻してるんでしょう。>幼い命を救うための自己犠牲が何で「天皇陛下と祖先祭祀の実践」になっちゃうのでしょう。 この辺は私も明瞭な答えを拝聴したい。相変わらずオウム返しの進歩の無い話術を繰り広げられていますね。「これは無理がありました^^;」なんてコメントがあったほうが、人間味溢れる対話があっていいものなんですがね。

  8. 栗最中:

     >一言主様 貴方のコメントを読んで、「祭祀」と「政治思想」を混同しているのだろうと私も思いました。違うという事でしたら改めてご説明をお願い致します。 貴方が最初に書かれた疑問ですが、 >幼い命を救うための自己犠牲が何で「天皇陛下と祖先祭祀の実践」になっちゃうのでしょう。 これはいい質問ですね。 「子供を守ろうとする人間の本能に従い自己を犠牲にする事」が「天皇陛下と祖先祭祀の実践」であると書かれると、論理の飛躍を感じるという事ですね。 では、貴方が論理の飛躍に感じられた原因である「共通認識と思われる為に敢えてここで記述されなかった前提となる概念」とは何なのか考えてみましょう。 それは「神道の精神」ではないでしょうか?

  9. 栗最中:

    「神道」とは「信仰」でありながら、一般に認識されている「宗教」という言葉には収まりきらない日本民族の文化、日本人の生活の中に内在している世界観です。 教義、教典等はなく、承継される祭祀と共にその精神は今も私達の中に生きています。 「祭祀」とは、神々、祖先をおまつりする事。「まつる」の語源は「たてまつる」です。 言葉の意味をそのままに解釈すると、捧げ物をして神々の顕現を待つという事でしょうか。日々の感謝を神々と祖先にお伝えする為に、供物や祈りを捧げ、利己心を捨てて世のために尽くし、その知恵を承継していこうとする精神のあり方が神道に通じる精神であると思います。そしてその神道の最高神官たる存在が天皇陛下です。 利己心を捨てて世の為に尽くし、生命を承継しようとする尊い行為の内に神道の精神を見出し、それは祭祀の頂点におられる天皇陛下の存在に通じるという意味を込めて、ブログ主さんは「子供を守ろうとする人間の本能に基づき生命の承継を保守しようとしたこと」を「天皇陛下と祖先祭祀の実践」と表現したのだと思います。

  10. 栗最中:

     こう説明されると今度は、日本人の文化としての神道の精神性を、他国の映画の中に見出し、決めつけて書いているという批判をされるかもしれません。 しかし、この神道の精神性は日本だけに留まるべきものではないというのがこちらで主張されている事ではないのでしょうか? 畏れ、敬い、そして感謝を捧げるという精神、利己心を超えようとする精神こそが真の平和に繋がるもので、世界で今必要とされているものなのではないか?であるからこそ、その精神によって描かれる日本の映画が、異文化を生きてきた人々の心を動かすのではないか?また他国の映画でも、この記事で扱われたワンシーンのように 、その精神に通じる行いは、見る人の心に響くのではないか?と主張されているのだと思います。 いかがでしょうか?この前提をもって貴方の最初の疑問の答えが見つかりましたら幸いに思います。

  11. 言主を名乗るな:

    連日のように遠藤氏が何を書いてるか、少しは疑問を持ったら勉強してから書き込むがいい。それが他人の主張に飛び込む最低の礼儀だ。それがなければ菅直人にも千葉景子にも批判はできない。第一、あれを自己犠牲と要約した時点で祭祠を理解してない証拠。文脈に何の無理がないのに「無理があった」と書かせる何と愚かなこと。