自衛隊どんな思いだったか
本日は、八月十五日です。この日だからこそ、敢えて皆さんにお読みいただきたい記事があります。それが岡部俊哉元陸上幕僚長の「日本航空機123便墜落事故」に関する週刊新潮(新潮社)の記事です。
事故が起きた昭和六十年当時、自衛隊による救助活動は、まだまだ国民的理解を得ていたとは申せず、乗客乗員五百二十名もの命を奪った日航機123便の高濱雅己機長に対する非難と、捜索活動が翌朝になった自衛隊に対する非難は、事故発生から徐徐に熾烈を極めました。
しかし、後部圧力隔壁の破損により垂直尾翼の三分の二以上を失い、油圧コントロールを全喪失してなお「何としても生きてみんなで羽田へ帰ろう」と三十分程度も飛行を続けた高濱機長(海上自衛隊出身)や佐々木祐副操縦士(当日は機長昇格訓練中)、福田博航空機関士の驚異的「死闘」は、まさに賞賛に値するものであり、のちに認識が改められたのはせめてもの救いでした。
ところが、この事故に対する自衛隊の名誉回復は未だ、道半ばです。
阪神淡路大震災や東日本大震災、毎年のように各地で発生する豪雨災害に於いて、必ず私たち国民を助けに来てくれる警察、消防、自衛隊の姿を何度も見てきたにもかかわらず、現在自衛隊がすぐに飛んできてくれるようになる以前のわが国の「大東亜戦争後遺症」が如何程のものだったかを思い返すことも出来なくなっています。
わが国は、日航機123便事故や阪神淡路大震災などの経験から、自衛隊への出動要請の要件を緩和してきました。そうして、後遺症に怯えていたころより遥かに多くの国民の命が救われるようになったのです。
この岡部元幕僚長の記事は、確かに昨年拝読しました。そして、この中に出てくる作間優一二等陸曹(当時)がどのような想いで川上慶子さんを抱きかかえて救出したかについて、私は別の項で拝読しています。その作間氏は五年前、亡くなられました。
この世の地獄というにもあまりに酷すぎる事故現場からのち、多くの自衛官が眠れなくなり、お肉はおろかお米も食べられなくなったことを、私たちは忘れてはならないのです。
それが過去から未来へ、わが国の、私たち国民の平和がどうあるべきかを論じる素地であろうと、私は思います。