京アニ事件どう報じたい?
まず、もう一度十七日記事をお読みいただき、京都アニメーション第一スタジオ(京都市伏見区)で青葉真司容疑者が起こした凄惨なテロ事件に対し、京都府警察が実はどう向き合っているかをご確認ください。
その上で一般論を申しますと、私が極力ここで事件報道を扱わないのは、いわゆる「警察発表」の不正確を認識しているからです。もっと正確に申しますと、その報道の仕方の不正確さそのものです。私たち国民には非常に分かりにくい、報道権力と行政権力(この場合は警察)の間で理解されている言葉遣いとでも申しましょうか。
在洛新聞放送編集責任者会議が「(被害者ご氏名のほとんどが公表されない)今回を先例としないよう」と求めているのは、行政権力によって情報が制御されることを報道権力側が危惧しているからにほかなりません。
一方、京都府警が公表しないのは、ご遺族の意向に沿っているからであり、報道権力がご遺族宅などに押しかけて無神経極まりない取材攻勢を繰り広げるという許しがたい蛮行を避けるべく、府警が「今回ばかりは勘弁してやってくれ」といっているわけです。
私たち国民が行政権力によって統制された情報にしか触れられないとすれば、当然不利益を被ることがありますから、報道権力側の申し入れは理解されるところでありますが、報道権力によっていじくりまわされる情報に触れ続けてきた私たち国民にしてみれば、青葉容疑者の公判請求がなされたのち、起訴状に公開される被害者ご氏名になぜ今それほど「粘着」するのか、という疑問のほうが甚だしく生じるのです。
これまで散ざん目にしてきた報道権力によるご遺族への「襲撃」や、何としても彼らが得ようとするご遺族の「コメント」の不必要を、まさに私たち国民は二度と目にしたくありません。
事件の全体像は、むしろ青葉容疑者に関する情報の公開によってつかみ得るのであり、だからこそ警察は何としても容疑者の快復を待って供述も得たいのですが、状況証拠と申すべき容疑者の情報は既に報道権力もつかんでいます。そのほとんどが全く報じられていないのは、それこそあなたたちなりに「加害者の人権」に配慮しているからではありませんか?
ならば「被害者とそのご遺族の人権」にこそ配慮すべきです。或る種の政治運動になっている報道権力のその無神経さが、ますます行政権力による情報統制を招くと申しておきましょう。報道権力こそが私たち国民からも、行政権力からも信用されていないのです。
皇紀2679年(令和元年)8月21日 10:20 AM
加害者の両親についても報道がなされていますが、いつも思うのは、「親は子の犯罪にどこまで責任を持つべきなのか?」ということです。
例えば佐世保のこの事件。
父親は一風変わった人ではあったようですが、栗原某の様な鬼畜親ではなく、母親も娘に優しかったと言われています。
マスコミは、「父親の育て方のせいで娘が殺人鬼になった」かのような「過熱報道」を続けましたが、そうなのでしょうか?
同じ親に育てられても兄弟全員が「殺人犯」になるわけではないし、娘が「一度でいいから人を殺してみたかった」といった「殺人願望」を常に抱き、動物を解体したり、親しい友人を殺害したりしている場合、両親が人格者だったとしても「殺人事件」は起こってしまった可能性があります。
マスコミの報道では、この父親は、仕事の能力があり、快活で、割とマイペースな性格だったようですが、事件後は鬱になり、自殺したようです。
佐世保同級生殺害事件 父親を自殺に追い詰めた出来事を知人男性が明かす
https://news.livedoor.com/article/detail/9354537/
自殺の真相は分かりませんが、「ペンは剣よりも強し」という言葉の本当の意味とは、「ペンは剣よりも‶殺傷能力”に優れている」という意味なのかも知れません。