「石原都知事は狂ってる」

皇紀2670年(平成22年)12月18日

 16日記事で取り上げた東京都青少年健全育成条例の改正に当たり、石原慎太郎都知事の関連発言に対してコラムニストのマツコ・デラックスさんが苦言を呈しました。13日放送のTOKYO MX『5時に夢中! 月曜日』での発言です。

 http://www.youtube.com/watch?v=XJW0CdGe2UQ
 ▲YOUTUBE:マツコ「石原都知事は狂ってる」?青少年条例とゲイ差別

 ここでマツコさんが指摘していた「同性愛者はどこかやっばり足りない気がする」という石原都知事の発言については、毎日新聞社が記事にしていました。

 http://mainichi.jp/select/wadai/news/20101208k0000m040122000c.html
 ▲毎日新聞:石原都知事 同性愛者「やっぱり足りない感じ」

 私は何度も、エドマンド・バークが提唱した保守哲学について、祖先から受け継がれたものは無条件に次世代へ継承するとし、ゆえに仏国の革命に理論的な批判を加えたのは、彼が人間の習性としての偏見に気づき、その偏見に支配される理性と意志と心情に何らの疑いもかけないことへの危険を指摘したためだと論じてきました。

 ですから、実は革命を唱える左翼思想こそ個人の偏見を肯定しているのであって、少なくとも保守を標榜する者は自らの偏見を疑わねばなりません。では、私自身は同性愛者に対する偏見が全くなかったと言えるか、自問する必要があるのです。これはとても辛い作業でした。

 一方でバークは、永続的且つ広く普及した共通の偏見にこそ古きものへの尊敬の念が潜在し、それは美徳と智恵をもたらし、個人の「裸の理性」による扇情的行為を防ぐものとしています。私はここに、個人の理性を絶対的現世価値観とした仏革命の「ギロチンの嵐」と、過去欧米に蔓延した同性愛者に対する「火あぶりの嵐」は、根源が同じではないかと考えるのです。

 祖先から受け継がれた生命を次世代へ継承するという生物の本能に対し、同性愛は「次世代への継承」という点で反することになります。しかし、自らの存在は紛れもなく「祖先から受け継がれた生命」であり、特に性同一性障害者が苦悩する過程で「生まれてこなければよかった」「自分は間違った存在だ」などと考えるようになることに、私は皇室祭祀をもって互いに優しく解きほぐす努力をすべきだと思うのです。

 男女が結婚をした場合に於いても、必ず子孫を残すことが出来るとは限りません。さまざまな要因によって、子供の誕生を願いながら叶わぬ夫婦もおり、それがすなわち結果として生物の本能に反し、保守主義や祖先祭祀に反すると断じるのは間違っています。むしろ、そのような現実に悩む夫婦を救う哲学と理想が皇室祭祀にあるのだ、と。

 ところが、柳澤伯夫元厚労相の「産む機械」発言に見られる極めて唯物論的な発想で申せば、「産む権利」「産まない権利」といった権利闘争へと発展し、同じく同性愛者も権利闘争をするほかなくなります。決して「私は異性愛者です」などとは申さない私の横で、わざわざ同性愛者に「私は同性愛者です」と言わせる闘争運動はいかがなものでしょうか。

 そうは申しても、私を含む保守哲学を研究する者がいち早くこのことに気づけばよかったのでしょうが、現状では「権利闘争」や「人権運動」を主として革新的な左翼が請け負っており、そうでなくともいわゆる「人民主権」のジャン=ジャック・ルソーや、或いは表層をさらえば「人間をただの手段として扱うな」という哲学を示したことになっているが、ルソーの強い影響を受けて理性を人間の自然的素質とした(私が思うに)間違いのあるイマヌエル・カントらに傾倒する者が、人間の存在を革命目的の最大限達成に手段として利用している有り様です。

 これでは決して同性愛者に対する排除・排外の現象はなくなりません。また、私が以前から提起してきた身体障害者に対する偏見がないかという自問の必要も同じで、例えば旧約聖書のレビ記には障害者への温情的表現と蔑視的表現が共に表れます。本来キリスト教はこの事実のみをもってしても、人間の偏見に気づかせる教えだったはずです。

 彼らは、ユダヤ教もそうですが、障害者への偏見と同性愛者への偏見を乗り越えたとしていますが、元来は穏健なイスラム教にせよ、原理主義者は極めて過激なことを今なお主張します。どうしても宗教は教義・教典を突き詰めれば、何かしら排除・排外の傾向へと奔りがちなものではないでしょうか。

 そのような世界観を変え、闘争ではなく和(平和、協和、調和)によって進歩する人類の哲学は、やはり皇室祭祀をおいて他にないのであり、まず日本民族自身が実践しなければならないのです。神社を参拝する神父や牧師、ラビらがいることを、私たち自身がよく知らねばなりません。

 ともかく、調べうる限り平安時代より「衆道」が存在し、「武士道」と「男色」は矛盾しないものとしてきた日本の歴史をひも解けば、そこに一族の安泰という目的もあったでしょうが、端的に申せば非常に緩やかな価値観を共有していたことが分かります。それを可能にした世界でも唯一と言って過言ではなかったのが日本民族なのです。このことを肝に銘じておきましょう。

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『「石原都知事は狂ってる」』に11件のコメント

  1. すずき:

    同性愛者を差別するのは間違っていますが、TVにあんなにも同性愛者が出る必要があるかは別問題で語ってほしいです。それに出方によっては差別を助長したり、事実と違うことが誇張されたりします。私は石原都知事の同性愛者は変の言葉には呆れますが、TVにあんなに出る必要があるのかは同感です。石原都知事は面白い存在だなと思いますがもう少し考えてからいってくれれば、もっと同意を得られるでしょうに、自分の感情を優先させる傾向があってそこをつかれてしまうようですね。

  2. ストリートマン:

    武士道と男色は相身互い理解は出来ますが、これに「商道」の為に男色を披かせる、女装で誤魔化す、「下司」と感じてしまいます。それにしても一言が「大事」である事を政治家は気を付けるべきですね。

  3. :

    はじめて書き込ませていただきます。もうこれはブログのエントリーレベルじゃないですよ。哲学論文です。でもブログの尺に合わせようと細い解説が抜けてるように思えて、完全理解が難しいです。遠藤先生は政治思想家ですから、本にして解らせてほしいです。どうかブログでは他の政治ブログと同じようにやさしいのをお願いします。ここへくると途端に内容が難しくて読むのに苦労します。文字が読みにくいとかじゃありません。勝手なこといってすみません。

  4. tom-h:

    >では、私自身は同性愛者に対する偏見が全くなかったと言えるか、自問する必要があるのです。これはとても辛い作業でした。正直自分は未だに同性愛者に対する考えが定まっておらず、>祖先から受け継がれた生命を次世代へ継承するという生物の本能に対し、同性愛は「次世代への継承」という点で反することになります。この↑視点と>特に性同一性障害者が苦悩する過程で「生まれてこなければよかった」「自分は間違った存在だ」などと考えるようになることに対する同情(という表現が適切かどうか分かりませんが)の視点の間でさまよっています。

  5. 心神:

    どうでしょうね?簡単に言えば秩序を欠いた快楽社会を先人が戒めた‥?日本・欧州の貴族社会では人妻との不倫は暗黙の了解。そこで宗教界は社会に平行感覚的な役割があったと‥遠藤氏が言うように教義・経典をつきつめると原理思想にたどり対立へと発展したのは歴史が語っていて、それには背景として不幸な社会が存在したでしょう。ローマ帝国が分裂する前のキリスト教会を正教会とかギリシャ正教会と呼ぶのですが、時代に応じ枝分かれした教会にあっても、元へ辿ると‥日本では天皇陛下への祈りをします。大阪府では豊中市に正教会があるのですが、これは何も特別な事ではなく各国々において国家元首への祈りを捧げるそうです。それは国家の発展と平和を意味するのは云うまでもありません。米国経由のプロテスタント教会にすればこの事に驚かれるでしょう。これには仕方のない諸事情があるのですが‥個人的な事を申しますと、本来は宗教・学問・政治というのはダイナミックでスケールの大きいもので、それによる争いの大半は人間の都合による事がほとんだと思うのです‥ここにおいても遠藤氏の政治姿勢には共感する部分も多く、日本国家の発展・平和への求道者である事を願います。

  6. knnjapan:

     メディアに於ける同性愛者の扱いについては、マツコ・デラックスさん自らが「批判される部分はあり、理解している」と発言されていることが、ご紹介した動画にありましたので、ここでは改めてメディア論には触れませんでした。ご了承下さい。 本記事は保守哲学の実践の在り方に的を絞りました。それでもご指摘のように第一稿から相当の文量を削っており、各論の説明が不親切であったかもしれなければ、申し訳なく思います。

  7. MTL:

    確かに難しいテーマだと思います。私自身も正直、同性愛者に対して全く偏見がないかと問われれば肯定はできないと思います。実際私は知り合いの女性(外国人)から自分が同性愛者であると告白をされたことがあり、もちろん驚きはしましたが、「人それぞれ」「本人の自由」「いいと思う」などの言葉をかけ、同時に自分自身にも言い聞かせていました。しかしこれが他人ではなく、身内の中に(同性愛者が)いた場合、果たして同じことを本心から言えるかと問い直し、やはり綺麗ごとであったと自覚しました。決して単純には結論を導き出せませんが、遠藤さんのご意見大変参考になりました。

  8. MTL:

    隼様 のご意見に対する一読者としてのコメントですが、そもそもこのブログの読者(少なくとも私において)は、”他の政治ブログと同じようにやさしいの” などを求めてここへ訪問していない、とだけ申し上げておきます。もちろん時には難しく何度か読み返すこともありますが、それは読解力に問題がある、と自覚していますので、記事のレベル云々についてはこれまで同様、遠藤さんのスタイルでお願いします。常に内容が濃く、多くのことを学ばせて頂いています。

  9. Sura:

    先日は、私の我が儘に答えていただき、有難うございます。マツコ・デラックス氏の意見はともかく、テレビなどのマスメディアで扱うのと、漫画などの書籍と同列に語らないほうが良いと、個人的に思っております。何故なら、書籍はあくまで、自由の行使に当たりますので、対外的な影響が無い以上、それを法律で縛るのは問題ですが、テレビ放映に関しては、国からの許可によるもので、テレビ放映はそれ自体、国民全員に影響を与えるもので、公器であります。

  10. gur:

    メディア論における部分としてマツコ・デラックスさんのように感情論を通す部分は元朝日ニュースキャスターである久○宏他が始まりですと思いますが、感情論と伝える部分のずれを生む事で現代における人権侵害や言論の自由に繋がってきたのではないかと考えています。そのメディアによる感情論と保守哲学の実践の在り方に繋げるには多くの説明不足がありますが一つ大事なところをあげるとしますと、このメディア感情論について解決の糸口を見つけておかなければ、メディアに対抗できる「哲学や保守のあり方」への道しるべが国民にできるか?それが必要不可欠な問題だと私は思います

  11. kumahr:

    メディア論じゃないって書いてあるのにしつこく的外れな議論をふっかけるのはなぜ?あれもこれもってわけにいかないだろ。自分はこの内容で充分テーマを理解できた。ほかで読んだことがないかなり新しい(伝統の古い?)論だったと思う。