「反日」のウソやまない理由

皇紀2684年(令和6年)8月17日

 夏季五輪パリ大会(パリ五輪)卓球女子シングルスで銅、団体で銀メダルに輝いた早田ひな選手が「鹿児島の特攻資料館に行ってみたい」と語ったことについて、私たち日本人がこれほど大騒ぎすることですか?

 思想の左右など何の関係もありません。一人の日本人として今、先人たちの営みを知ろう、学ぼうとする若者をなぜ止めようとするのでしょうか。

 中共人にとやかく言われる筋合いもありません。むしろ中共人は、約三千万人もが共産党に虐殺された文化大革命を知ろう、学ぼうとしたほうがいい。

 若者の祖先祭祀の学びを非難する権利は、誰にもないのです。早田選手の純粋な言葉を曲解する大人たちの、何と醜いことでしょう。

 近頃、子供を利用して左翼・極左活動をする大人が何の躊躇いも恥じらいもなく表に出てくるようになりました。自分たちの危険思想を子供たちに洗脳で口移しする大人こそ、靖國神社を参拝して「赤紙一枚で戦地に散った御霊」に頭を下げ、平和を守る、命を守る意味を学んだほうがいい。

 靖國を参拝した高市早苗経済安全保障担当相らの何がいけないのでしょう。国民の命を散らせた責任を踏襲しない国家権力側の人間をこそ、私たち国民は恐れるべきなのです。

強制連行説否定の研究公表も…定着した誤解なお解けず 朝日慰安婦報道取り消し10年

朝日新聞が、戦時中に韓国で女性を慰安婦にするため強制連行したとする吉田清治氏(故人)の証言を虚偽だと認め、関連記事を取り消して5日で10年となる。この間、慰安…

(産經新聞社:産経ニュース)

 現行憲法(占領憲法)が放置され続けて、一体どの時点で特にわが国の無気力が一気に加速したのだろう、と考えてみますと「昭和二十年八月十五日の時点で既にそうだった」とも言えれば十三日記事で述べたようなことが端緒だったもしれません。

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 左翼思想をこじらせて対日ヘイトスピーチ(憎悪差別扇動)に魅せられてしまった者たちは、それが北韓(北朝鮮)や中共による日韓米離間工作だとも知らず、或いはそうと知っていて積極的連帯に努めるようです。

 そのくせ「友好」だの「平和」だのを左翼こそが語るから極めて滑稽なのですが、無思考・無批判に堕ちたわが国の国家四権(司法・行政・立法・報道)は、それをせせら笑う気力すらも失っています。

 公式動画の「【旭日旗のヒドいウソ】日本政府は抗議しろ!」でも申しましたが、日韓の「歴史問題」とされたものは、その嘘がすべてバレました。そのようなものは、もう存在しません

 にもかかわらず産經新聞社記事が嘆く現状は、これでまだ「カネを集めよう」とする対日ヘイトビジネスが存在し、左翼・極左が破壊活動資金にしているからです。つまり、カネづるは捨てられない、と。

 私たち国民が何となくでも「日本はそこまで悪いことをしたのかなぁ」と思うことは、大きな間違いなのです。やってもいないことを「やった」と捏造、歪曲される「これこそが歴史修正主義」に、決してつき合ってはいけません。

 読者諸氏に於かれましては、「何を今さら分かりきったことを」というお話でしょうが、現状を見る限り、油断禁物どころか事態を改善できていないのです。

 いつまでも嘘を吐き続けて票やカネをかき集めようとする卑しいヘイトを、絶対に許してはなりません。政治家や弁護士、破壊活動家から飛び出す憎悪扇動の妄言を、いちいち一つ一つすべて叩き潰すのです。

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『「反日」のウソやまない理由』に2件のコメント

  1. きよしこ:

    批判と誤解を恐れずに言えば、早田選手が「知覧に行ってみたい」と発言した時、特に驚きや感動、賞賛といった感情はなく「そうなんだ」「この年で知覧のことを知っているのか」ぐらいにしか思いませんでした。過剰に賞賛すればカウンターのように「けしからん」と難癖をつけてくる輩が出てくると分かっていたからです。すると案の定、YouTubeの再生数稼ぎか知りませんが、「〇〇党から出馬を」だの「引退後は政治家に」だの本人が望んでいないであろう無責任な要求を突きつけ、それに対抗するかの如く「国際問題に発展する」「歴史修正主義者」といった傾聴にすら値しない暴論が現れました。早田選手がいつどこに行こうが彼女の自由なはずです。それに対し自身の価値観や要求を挟むのは人として間違っているということがどうして理解できないのでしょうか?

    輪を掛けて悪質なのが報道機関で、産経新聞社が知覧特攻平和会館の関係者に意見を聞いたのは許容範囲としても、「中国・韓国から反発の声」「中国選手が早田選手へのフォローを外した」とわざわざ喧伝してみせる醜さはヘイトビジネスそのものです。特攻と中韓は全く関係ないという当たり前のことすら知らない、もしくは意図的に覆い隠そうとしている「歴史改変主義者」の戯言にどうして付き合わされなければならないのでしょうか?

    戦没者の魂を祀る施設を訪れようが訪れまいが、その双方を尊重するのがこの手の連中が好む「多様性」ではないのですか?我が国の政治家が靖国神社を訪れる度に戦没者の遺族よりも中韓の声に耳を傾けてありもしない歴史問題を作り上げようとする左翼勢力を叩き潰す活動に若い世代を巻き込まないでいただきたい。

  2. 日本を守りたい:

    以下に記しますのは、ずいぶん過去に書いた物ですが、よろしければ、お許しください。拝。

     日曜日に ゲンちゃんはレモネードを作って レモンの爽やかな風味に癒されながら
     若山富三郎が弁護士を演じる「事件」という物語を パソコンで検索していました。
     すると何故か「宅間守の事件」が表示され、見入ってしまいました。

     「宅間守の事件」を ゲンちゃんは詳しくは知らなかったのです。

     「大阪教育大付属池田小学校(大阪府池田市)で2001年、児童8人を殺害、
     教師を含む15人に重軽傷を負わせたとして殺人などの罪に問われ、
     1審大阪地裁判決が確定した宅間守死刑囚(40)の死刑が
     2004年9月14日、収監先の大阪拘置所で執行された。」

     ゲンちゃんは この事件と犯人の宅間守に 
     素通りしてはならないものを感じて 検索を続けました。
     そして宅間守の言葉に 同時代の人間の「罪と罰」を 考えさせられました。

     それはメルマガのテーマである 豊かな人 に繋がるものでもあると感じて、
     この1週間は仕事の合い間にも 朝の起床の時にも 
     宅間守の言葉について考えてしまったほどでした。
     今回のメルマガは この事件についてから始めさせて頂きます。

     ゲンちゃんは思います。
     家庭でも社会でも、人と人との関係が
     愛による一致ではなく 
     抑圧と暴力による支配と屈従でしかない
     そんな状態が続けば、人の魂は窒息してしまう。
     魂の死は憎悪となる他は無い と。
      
     宅間死刑囚 彼は父親と社会から 人生への憎悪を植え付けられ、
     しかし憎悪から逃げ回った弱い人だと ゲンちゃんは思いました。
     彼は 他者への暴力と破壊へと逃げたのです。
     憎悪する者にとって、憎悪が必然なら、正当だとしか思えないなら、
     運命と人生とへの憎悪を抱き続ける事だけが 彼に必要な誠実さであるはずです。
     憎悪を抱いたままで生きる事に意味が在るかを問い、意味が無いとしか思えないなら 
     そうでありながらそれでも生き続ける事だけが 
     彼に憎悪を必然のものとした運命と人生とへの復讐ではないか。
     無意味さを担って虫けらのように生きる事が 彼から意味を奪った神への反抗であり、
     神の罪を告発する人間の尊厳ではないか。

     しかし彼は逃げた。他者への 弱い者への暴力へと。何という惨めさ。
     宅間は言った。「ガキどもは一瞬で死んだ 一瞬で殺したった」と。
     そう言って、彼が殺した児童たちの生命のはかなさを嘲笑した。
     ここでゲンちゃんは彼に問う。
     一瞬でも死から逃げなかった事がお前にあったのか 
     お前自身の魂の死を苦しみ、
     お前自身の魂を殺したものと真剣に闘った事が お前に有ったのか と。

     お前は知っているではないか、憎悪が死によっても終わらない事を。
     魂が憎悪に支配され続ける事を。法廷内で お前は遺族に言い放ったのだ。
      「死刑になって あの世でも おまえらの子供
      しばき倒したるからな! あははははは! あははは! こらおもろい!」

     ここで、以下にひとつの新聞記事から引用させて頂きます。

     ■宅間死刑囚と面会 心理士に聞く 時間かければ贖罪も(東京新聞,特報)

     宅間死刑囚の心は常人では理解しがたい。
     それだけに再発防止のためにも、心の解明が求められていた。
     捜査段階と公判段階で二度にわたる精神鑑定が行われ、ある程度は人物像が解明された。

     捜査段階では「非社会性人格障害や妄想性人格障害」などと判定。
     公判段階では、思いやりや道徳心などの人間らしい感情を欠く
     「情性欠如などの人格障害があった」と断じた。

     一方で、解明に至らなかった部分も多い。
     元主任弁護人の戸谷茂樹弁護士は刑確定後も、一貫して謝罪を引き出そうと試みてきた。

     「凶悪な事件で謝罪を引き出すまでに時間が必要だった。
     長谷川先生の努力もあったので、もう少し時間があれば」
     と悔やむように、刑確定から執行まで時間が足りなかったと残念がる専門家は多い。

                                 ( 引用終わり )

      ゲンちゃんは思うのです。
     重い罪を犯して裁かれる者は 何よりもまず彼自身が 
     彼を捕えている罪の力から解放されなければならない。
     それが成就していないのに 被害者に謝罪するのは欺瞞であり、
     なおも彼を捕らえている罪と 強いられた謝罪という欺瞞によって 
     彼自身は更に害われる事になる と。

     罪とは 愛に反し愛に背く力であり、全ての人間を捕らえている魔的な力である。
     人間の尊厳とは、罪の力に対して否か然りかを決断する自由である。
     この自由があまりに重荷であり、人は自由を捨てて 宗教的権威に服従する。
     だから「神は死ぬ」のである。自由を失った人と共に。
     ニーチェは自由を守り通して生きようとした。生きている神と出会うために。

     ゲンちゃんは考えます。「謝罪を引き出す」とは、なんと愚かな事を と。 
     それなら いっそ宅間を拷問でもすれば良かったではないか、
     「謝罪の言葉」を引き出して 遺族へのせめてもの慰めとし、
     法による秩序はその権威を保つというのなら。
     権力の本来の目的は 人間の尊厳を求めてこれを守る事に在る、 
     だからこそ公務員に拷問を禁じるのだ。

     宅間自身が罪の力から救われなければ、謝罪は実現しないのだ。

     ここで再び 東京新聞,特報 より引用します。
     以下の精神病理学者のコメントに ゲンちゃんは呆れました。

     ■母性愛を手に堂々と死地に

     宅間死刑囚は死刑確定後、支援者の女性と獄中結婚している。
     岐阜大の高岡健・助教授(精神病理学)は こう指摘する。
     「母を求めるように女性の愛情を求めていた宅間死刑囚は、
     最後にそれを手に入れ、堂々と死に赴くことができたのではないか。
     遺族には憎しみだけが残った一方で、
     宅間死刑囚が最後に人生を全うしたとすれば、皮肉な結果と言わざるを得ない」

                              ( 引用終わり )

     ゲンちゃんは思います。
     宅間が獄中結婚によって 本当に愛を知ったというのなら、その時こそ彼は
     「生きたい、本当に生きたくてたまらない。生きる事は喜びであると今初めて知りました。
     私が8人もの子供達の生命を奪った事は 万死に値する 
     悔やんでも悔やみ切れない 死をもって償う他はないけれど、
     しかし それでも私は 生きたいのです」と叫ぶはずだ と。
     彼は謝罪せずにはいられないし、人生への愛おしさに満ち溢れるはずだ と。
     ゲンちゃんにはそうとしか思われない。
     愛を知る事は 生きる事への無限の祝福を知る事なのだから。

     報道に拠れば、事実は、謝罪の言葉は遂に無く 死刑が執行されたという。
     
     ゲンちゃんが犯罪者にならずに済んでいるのは、道徳や戒律に服従しているからではなく、
     人生には道徳や戒律を克服する道が在る事を それこそが生きる喜びである事を 
     わずかでも知っているからです。よたよたと とぼとぼと 
     しょっちゅう立ち止まってため息をつきながら なんとか生きていられるのは、
     罪の者でありながら同時に 愛されている事を知っているからです。
     罪ではなく愛を選ぶ自由から逃げてばかりいるのに、
     それでも愛されている事を知っているからです。
     母の死後に ゲンちゃんは母から愛されていた事に 本当に気付かされました。
     母が死んでから 私はますます母と強く結ばれて行く気がしているのです。
     どうやら私のマザコンは どんどん重症になるようです。
     たとえマザコンの悪化で死にそうになっても、
     精神病理学者には決して相談しないでしょうけど。笑。

     話がそれてしまったようです。本題に戻ります。

     人間には 苦しみの深淵に沈められて もがく事さえ出来ない時があります。
     魂までもが 全ての言葉と望みを失い、ただ苦しみにうめくのです。
     しかし、そのうめきに応えて 魂に来てくれるものがあります。
     それこそは、本当に彼のものになります。
     本当に彼のものとなって、彼と共に生きるのです。
     「これこそは本当に私のものだ」
     そう言えるものと出会い、それと共に生きる人 
     それが本当に豊かな人だと ゲンちゃんは思います。

     それは本当に彼のものなので、彼から去る事はありません。
     だから 彼はそれを他者に与える事が出来ます。いえ、与えずにはいられないのです。
     それを与える事で他者を生かし 他者を支えるだけでなく、
     更に強く彼自身を支え、彼自身の生きる勇気と力にもなってくれる
     そういうものだからです。
     それこそは 人が得る 真の宝です。

     この宝の名は何でしょうか 
     人間の知性が 意識が 探り当てる事が出来るでしょうか 

     詩人リルケは書きました。「大きな苦しみの後に 確かな信仰がやって来た」と。
     以前メルマガに記したリルケの詩 「 秋 」の後半

     わたしたちはみんな落ちる
     この手も落ちる。
     そして よくごらん
     ほかの人たちを。
     落下はすべての人の中にある。

     しかしひとりの方があって
     この落下を かぎりなく優しく
     その両手で 支えてくださる。

     リルケはキリスト教文明圏の人ですから、
     「ひとりの方」とは イエス・キリストでしょうか 
     ゲンちゃんは そうであろうとなかろうと どうでもよいと思います。
     イエス・キリストという名を知る必要は無いからです。 
     ここでリルケが出会い、出会いを証言している「ひとりの方」は 
     全ての人にとって同じ者であり、その出会いは 誰にでも起こる事だからです。
     その普遍性こそが この詩に宿っている真理であるとゲンちゃんには思われるからです。

     人は本当に与えられているものを 与える事が出来ます。
     限りなく自身を与え続ける方が 人と共に在るからです。