ゴジラと自然祭祀と皇室

皇紀2670年(平成22年)7月27日

 社民党の辻元清美前副国土交通相(衆議院大阪10区)が離党するのだそうです。民主党の千葉景子法相(参議院神奈川)は、今夏の選挙で落選したにもかかわらず26日から民間登用の形で菅内閣に残留していますが、民主党内の1つ空いた旧社会党枠を辻元代議士が埋めるのでしょうか。よほど「閣内」の味をしめたのかもしれません。その旨味を与えてくれない社民党にもう用はない、と。

 さて、昭和29年に製作・公開され、全世界を震撼させた日本映画『ゴジラ』(本多猪四郎監督・円谷英二特技監督)が、平成10年に米国版『GODZILLA』(ローランド・エメリッヒ監督)を作らせるに至ったことを、皆様は覚えておられるでしょうか。

 と申しますのも、米国版は非常に評判が悪く、日米両国での興行成績も振るわず、予定されていた続編の製作が中止になっていますから、皆様のご記憶から抹消されていたかもしれません。

 そもそもゴジラとは、昭和29年3月1日に米国がマーシャル諸島ビキニ環礁で核実験(キャッスル作戦という水爆実験)を行い、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」が死の灰を浴びて被爆、久保山愛吉さんが亡くなるという事件の発生をきっかけに、東宝の田中友幸プロデューサーが「核の落とし子が東京を襲う」というプロットを思いつき、生み出された「怪獣」です。

 それが米国版では、仏国の核実験によって生み出された突然変異の「超巨大爬虫類」という設定になっており、米国の責任逃れという姑息な一面と、怪獣映画の作り方を知らないハリウッドの浅知恵があいまって、ほぼ擁護する声のないほど不出来な(第19回ゴールデンラズベリー賞最低リメイク賞受賞)作品になってしまいました。

 米軍の攻撃によってあっけなく死んでしまうという設定もまた、多くの批判を浴びた点です。ゴジラは本来、人類が作り出した武器・弾薬を跳ね返すような存在なのであって、昭和59年に原点に戻って製作・公開された『ゴジラ』(橋本幸治監督・中野昭慶特技監督)では、当時の防衛庁・自衛隊が極秘開発した「スーパーX」(架空)すら歯が立たず、ゴジラの帰巣本能を利用して三原山に誘導し、人為的に火山噴火を起こして葬るという手法が用いられました。

 このことについて、東宝の富山省吾ブロデューサーは「アメリカにおける怪獣とは『乗り越えるべき存在』、日本においては『畏怖すべき存在』であるという価値観の違いが現れた」と述べています。

 各界のゴジラファンによる研究では、例えば地震ナマズを畏れ、神と崇めるに至ったような日本民族の自然祭祀とゴジラの関係性を指摘する方もおり、確かに、恐怖の存在だったゴジラが次第に(第5作『三大怪獣 地球最大の決戦』以降)子供たちにも親しまれる「人類の守り神」的存在へと変貌していったのは事実です。

 自然は生命の源たる多くの恵みをもたらしますが、ひとたび牙を剥くと恐ろしいものでもあります。何もかも人間が支配・制御できると思う傲慢は通じません。その「定理」ともいうべき真なる命題を祭祀として、司られるのが天皇陛下なのですから、これは政治的思想でも何でもありません。もはやそのようなことも忘れてしまっている日本民族の何と多いことでしょう。

 ですから、天皇陛下に対する畏れを知らない右翼や保守派も多くなっています。平気で東宮批判するような彼らは、いわば保守を騙る現世個人主権の革命思想家に他なりません。非常に危険な存在です。

 再度申しますが、これは祭祀であって政治の話ではありませんから、富山氏の「畏れ」の指摘は、米国人(エメリッヒ監督は元々独国人ですが)に対してのみならず、日本人に対しても言っておられるのではないでしょうか。

 つまり私たちが「畏怖すべき存在」を理解できない限り、ゴジラは再び原点に帰ることはなく、新たに製作されることもないのです。このことは、平成18年にリメイクされた『日本沈没』(樋口真嗣監督)のお粗末な物語展開の原因でもありました。どういうことなのか、一度考えてみられて下さい。また取り上げます。

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『ゴジラと自然祭祀と皇室』に4件のコメント

  1. matu:

    「畏れ」を知るのが「保守」といっても良いと思います。聖なるものは不文である として、帝国憲法では簡潔に記されています。第三条 天皇は神聖にして侵すべからずこれだけで十分なのですね。占領憲法では、畏れどころか国民の道具・家来かのようなことになってしまっています。「保守を騙る現世個人主権の革命思想家」は、占領憲法に素直に従っています。困ったことです。占領憲法は無効であるというのに、大きな影響力を持っている。困ったことです。

  2. ストリートマン:

    ピースボートも与党にいたおかげで大手新聞社に宣伝を出すように成りました。社会党員が半分居る民主党、彼女が「利」に走るのも良く判ります。皇室批判はしてはいけません、政界にも類を見ない家系を見るだけで「この世」の究極が「皇室」。

  3. 秋津:

    保守と國體を考えれば憲法をどうすべきか見えてきます。まず國體護持でしょう。その象徴たる 皇室をまともな状態にもどす・・つまり皇室典範を臣民の手の届かない憲法と同格な状態に戻す それが保守と言うものです。それができるのは無効論しかありません。世の中 似非保守が蔓延しています。保守の定義をまともにしないとなりません。

  4. 主婦:

    考えさせられますね