司法が民意を全く無視した

皇紀2677年(平成29年)3月12日

 http://www.sankei.com/west/news/170309/wst170309……
 ▲産經新聞:【心斎橋通り魔】2審は死刑破棄、無期懲役 大阪高裁判決
 http://www.sankei.com/west/news/170310/wst170310……
 ▲産經新聞:【神戸女児殺害】裁判員裁判の1審死刑を破棄し無期懲役判決 大阪高裁

 私は、原則としてこのような刑事事件の報道に対し、まず扱わないものの(たいてい報道に間違いがあるので)自らも情報をとり、しかしながら軽率に持論を述べたりしないよう気をつけてきましたが、さすがに二日連続で大阪高等裁判所の判決に思わず「はぁ?」と声が漏れたので申します。

 音楽プロデューサーの南野信吾さんと、飲食店経営の佐々木トシさんを路上で突如無差別に殺害した被告の控訴審を担当したのが中川博之裁判長で、小学一年生の女児を自宅に連れ込んで殺害し、そのご遺体を激しく損壊して近くの草むらに捨てた被告の控訴審を担当したのが樋口裕晃裁判長です。

 この二人の裁判官の氏名は、司法権力に対する私たち国民の権利として、よく覚えておいたほうがよいでしょう。

 いえ、このようなことを申すのは、いたずらに国家権力と国民の対立を扇動する(極左暴力主義の)ようで本来極めて好ましくないのですが、昨日記事が韓国の「司法が民意の暴走に屈した」ならば、これらの判決は、まさにわが国の「司法が民意を全く無視した」ことになるのです。

 裁判所のいわば「浮世離れ」にくさびを打ち込もうと始まった裁判員制度は、過去ご遺体の身元確認に協力した経験のある私が知る限り、呼び出された裁判員にとってかなり苦痛を伴うもので、そうまでして法制度に従い裁判官を交えて下した一審判決を、こうも安易にことごとく控訴審で覆されるのであれば、裁判官に当該法制度を全否定されているようなものでしょう。

 とんでもなく口汚いことを今から申しますのでお許し願いたいのですが、この裁判官たちは、自身のご家族を突如誰かに殺害されない限り事件裁判の意味が分からないのではないか、とさえ思うのです。もちろん彼ら裁判官やご家族の身に、もしものことなど絶対にあってはなりません。

 つまり、ご遺族が「仇討ち」をしてしまえばまたそのご遺族が殺人犯になるわけで、そこで第三者が公平公正を期して代行するのが裁判なのです。人が人を裁いて「神」にでもなる行為ではありません。

 よって原則として人が人を殺した場合には、死刑(仇討ち)が相当なのです。これは私の持論であり、異議を唱える勢力があるのは分かりますが、よほどの勘案すべき事情がない限りに於いて死刑とすべきを、「精神状態が普通ではなかったから」だの(人を殺してるのだから普通ではない)、「一人しか殺していないから」だの(一人の命がそれほど軽いなら百万人殺しても軽いままで「戦争万歳」になってしまう。ふざけるな!)といわれれば、ご遺族でなくても「(判決を聞いて)吐きそう」になります。

 このような裁判官しかいないのであれば、いっそ遺族である自分が逮捕・起訴覚悟で仇討ちしてしまえばよかった、と。わが国の死刑制度が誹謗中傷されることもありますが、死刑をやめた欧州各国では、凶悪な現行犯はたいてい警官隊にその場で射殺されるではありませんか。何が違うのですか、といいたくなります。

 国民的激情に屈した韓国の裁判官も裁判員制度を無視した日本の裁判官も、ともに暴走しているのです。

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『司法が民意を全く無視した』に2件のコメント

  1. miku:

    >原則として人が人を殺した場合には、死刑(仇討ち)が相当
    完全に同意いたします。
    相手の生きる権利を奪ったのだから、自分の生きる権利が奪われて当然です

    殺人には死刑を
    強姦にも死刑を(強姦は女性にとってはある意味死よりも残酷)

    これでいいのです

    こんな当たり前の理論を「殺人者の人権」などを持ち出す左翼を許してはなりません
    諸悪の根源は「日弁連」そして「在日朝鮮人」による司法汚染です

    日本の問題には全て「在日朝鮮人」の存在があります これが全ての元凶です
    在日朝鮮人の強制送還以外に日本に未来はありません

  2. きよしこ:

    時代や洋の東西を問わず、権力者に求められる責務は「1人の被害者も加害者も生まない」ことに尽きるはずです。もちろん先生もそうだと思いますが、死刑制度など無くて済むのであればそれにこしたことはありません。ところが政治的中立も何もかも無視する日弁連などは被害者の人権は完全に無視したまま「更生」「冤罪の恐れ」を理由に「合法的仇討ち」の機会と権利を全否定するのです。私が殺人事件の被害者であれば、加害者はもとよりこのような偽善者こそ殺してやりたいと思うでしょう。
    その時の激情が人間の生命より重視される隣国の文化など、断じて模倣されるようなことがあってはなりません。それとも、何の落ち度もない我が子を無残に殺されたにも関わらず「計画性が無かった」という理由だけで刑を減軽されたことに「吐きそう」と述べた御遺族も、ある「人権屋」の生臭坊主に言わせれば「殺したがりの莫迦」と言われる世の中を理想とすべきなのでしょうか。