バンクーバー朝日と嘉農

皇紀2674年(平成26年)12月22日

 http://www.vancouver-asahi.jp/
 ▲映画『バンクーバーの朝日』公式サイト

 映画『バンクーバーの朝日』(フジテレビジョン開局五十五周年記念作品・東宝配給)が二十日、封切られました。全国のTOHOシネマズなどで公開されています。

 監督と撮影監督は、ともに大阪芸術大学映像学科出身の石井裕也(『舟を編む』など)と近藤龍人(『桐島、部活やめるってよ』など)。

 物語は大東亜戦争開戦前、カナダのブリティッシュ・コロンビア州ヴァンクーヴァーに実在した日本人野球団「バンクーバー朝日」の奮闘を通し、日系カナダ人たちが侮蔑的人種差別と貧困を乗り越え、いわゆる「白人国家」で高い評価を受けるまでが描かれています。

 昨今、在日韓国・朝鮮人、中共人のさまざまな問題が取り沙汰されていますが、ひとまず私たちの先人たちが海外で差別にあえいでいた事実に基づく視点を持つことは、大変意味があるのではないでしょうか。

 本作は、日本人の或る種の「精神」を鼓舞する目的では一切作られていないでしょうが、勤勉且つ安い労働力としてカナダの人たちから嫌われ、荷物を運ぼうとすると「汚いから触らないで」と吐き捨てられていた日本人たちがなぜ、カナダで社会的地位を確立できたのか、或いはどうすればそうなるのか、日本人だけでなく在日外国人のすべての人人に観ていただきたいのです。

 http://www.taipeinavi.com/special/5048839
 ▲台北ナビ:侍ジャパン来台記念 注目の野球映画「KANO」を詳しく紹介します!
 http://kano1931.com/
 ▲映画『KANO』公式サイト

 さて、十八日記事のコメント欄に、台湾の嘉義農林学校(現・嘉義大学)野球部が大日本帝國統治下で夏の甲子園に出場し、準優勝までしていた歴史に基づいて、現下の選抜高校野球(春)大会二十一世紀枠に台湾の高校を招いてはどうか、またそのように喚起してはどうか、というご意見が寄せられました。

 国民党の馬英九総統は、党主席を辞任するに至った統一地方選挙の大敗を受け、その親中政治に翳りが見え始めました。

 日台関係について私は、わが国側がその友好維持を怠っていると指摘したことがありますが、絆を育むにはさまざまな方法があります。

 嘉農学校のことを描いた映画『KANO』(馬志翔監督作品)は、いよいよ来年一月二十四日に公開されますが、これを機に「台湾の招待を」と呼びかけてみましょう。

 夏の大会は朝日新聞社、春の大会は毎日新聞社が公益財団法人日本高等学校野球連盟(高野連)とともに主催していますから、ハードルは高いですが、そのような意見が出始めたということを認知させるのは大切です。

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『バンクーバー朝日と嘉農』に3件のコメント

  1. おのさん:

    先生のブログ、いつも拝見させていただいています。
    台湾の21世紀枠での出場の提案は大賛成です。拡散します。

  2. 穐山和博:

    穐山です。
    私の「21世紀枠」提案に早速コメントしていただき有難うございます。
    毎日・朝日が牛耳る高野連を説得することは相当の困難が予想されますし、テレビ朝日やNHKが報道してくれるかどうかも疑問符です。
    しかし、私は思想や中韓とは関わり無く、もっと純粋に、大震災に寄せてくれた台湾の大好意に応え、閉塞感あふれる日本や日本人の心に「温かい灯」を掲げることのできるグッドアイデアだと考えています。
    結果的に成功するかどうかはともかく、日本にこんな意見や行動があったことを台湾が知ってくれるだけで大成功だと思います。
    ネットだけでなく、主演の永瀬正敏さんや配給会社が声を上げてくれると嬉しいですね。
    是非貴兄から訴えていただけませんか。
    私は中韓に11年間駐在しておりました。友も沢山おりまた仕事もさせていただきました。
    しかし、そのことと反日政治や反日教育は別次元です。憎もうとも思いませんでしたし、日本人として萎縮することもありませんでした。
    リタイアした今となっては、日本・日本人が誇りと矜持を持って世界に対峙してくれと願うばかりです。
    草莽の一言をとりあげていただき、心から感謝申し上げます。

  3. ゆき:

    中東のトピックではないですが、書くことをお許し下さい。最近イランのvipの語学奉仕をし、Mohsenという人がいて、webで検索したら、別人のM.Danishtalabというdrで教授のインタビューが出てきました。白髪の紳士で私が知っている留学生とは違うと思ったのですが、72年に大阪に半年後に東北大というのを聞き、やはりあのタラブさんだと確信しました。日本の様々な大学を訪れ、知日家でした。革命、イライラ戦争に翻弄され、80年にカナダに渡ったようです。人はイランと言うとだらしのない怖い国と言いますが、友の会で初めて接した彼は真面目で、シャイで、おしんのようにひたすら前を向いて薬学の研究をしていました。84年に電話があり、いつものように控えめに、いる場所をいいましたが、私は会いに行かなかったのです。そう日本に別れを告げる意味で、最初に語学科ともどもお世話した私をなつかしんで連絡をくれたのだと思います。すでに今年故人になっていました。日本人の奥さんとの間に学者の娘さんがいます。余りにも日本は中東を米国の目から見過ぎ、ばかにしていますが、40年前にこんなに熱意をもって日本に敬意を抱き、実に控えめに紳士的に振る舞うイラン人がいたことを伝えたいと思いました。故国を捨てる覚悟、様々な苦労そういうものがあののほほんとした私の学生時代に全く感知することができず、今になり産油大国イランの置かれた不幸をタラブさんの人生に合わせて実感しました。マスコミの宣伝とは違い、寄付奉仕文化のある心優しい人々の国です。カナダは懐が深いのでしょう。優秀な彼が受け入れられてよかったと思います。