感情的で哲学がない左翼

皇紀2671年(平成23年)6月12日

 概して政治に於ける右翼は「愛国」を叫ぶだけの無学で、左翼のほうがよほどカール・マルクスの『資本論』などを読み込んだ博学であると言われてきましたが、今や彼らの劣化が激しいのでしょうか。

 今回は特に、右翼にも左翼にも興味がないか、或いはどちらも好きではないという方にお読みいただきたいと思います。私自身がそうですから。

 http://www.news-postseven.com/archives/20110609_22486.html
 ▲NEWSポストセブン:君が代不起立女教師 校内で日の丸君が代反対トレーナー着用

 私は、いわゆる「国旗・国歌法」や国歌斉唱時の起立強制条例に大いなる疑問を呈してきましたが、その理由については過去の記述をお読み願うとして、不起立教員(公務員)が「『国歌斉唱』と司会が発声するや、心臓はバクバク。やがて私の脳裏には、日本軍が侵略した中国で銃剣を持たされ、中国人の捕虜を『突け』と命令された初年兵の姿が出てきました」などと述べている事実には、呆れ果てました。

 或る一つの事物が、一般の認識に於いてそれとまったく無関係な事柄を連想させるというのは、極めて個人的なことです。例えば、紫陽花を見ると哀しい思い出がよみがえり、思わず目を背けるといったようなことでしょうが、大抵の人はそれをもって紫陽花を植えないよう他人にまで強制したりはしません。

 ところが、国旗・国歌を政治運動化させる左翼は違います。個人、或いはそのような個人の集合の勝手な連想を集合体の外にいる大勢の他人に押しつけ、しかも公務を無視したまま公務員としての資格(給与など)だけは守ろうとすることで、国家(皇国)と国民(臣民)を裏切っているのです。

 そこにはただ、剥き出しの個人の感情(理性と意志と心情)があるだけで、何の哲学もありません。いえ、左翼は個人による感情を哲学にしてきたのですが、それでは人を説得することなど出来ないと気づくのは、一体いつなのでしょうか。

 9日に、西国(スペイン)のカタルーニャ国際賞の授賞式で演説した作家の村上春樹氏が、福島第1原子力発電所事故を受けて「日本は核への反対を続けるべきだった」と語りましたが、わが國體(国家の本能)を守るには「脱原発」しかないと申している私から見て、それが米国による広島市と長崎市への原子爆弾投下で味わった哀しみによると説いた村上氏が浅はかに見えて仕方ありませんでした。

 ここにも感情しかないのです。左翼がかねてから展開してきた「反原発」運動は、まさしく感情的で何の哲学もないものだったからこそ、冷笑されて終わり、結局は事故発生まで原発を温存させたのであって、実はその罪深さを彼らこそが背負わねばならないことなど、今もって全く思い知ってはいないでしょう。

 私たちは、感情ではなく理論で物事を考え、行動するようにしなければなりません。哀しいからやめる、楽しいからやり続けるといった理性至上こそが、まさに「人でなし」なのであり、日本国憲法に対する改憲・護憲の議論にせよ、詰まるところ自身の「居心地の悪さ」を隠し仰せない右翼と左翼による非論理的な感情の対立でしかないではありませんか。

 私のように「自衛隊は日本国憲法によれば違憲の存在だ」または「原発に依存しない資源政策を」と訴えれば左翼であり、祭祀を司られる天皇陛下に頭を垂れ、国旗を掲げて国歌を斉唱すれば右翼である、と姿の見えない集団に決めつけられ、誰も理論に耳を傾けない世の中になったことこそ、現下のわが国の不幸なのです。

 真正保守政策研究所:新しい資源エネルギー政策を提言します

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『感情的で哲学がない左翼』に1件のコメント

  1. matu:

    この不起立教員は、左翼なんでしょうか。
    妄想にとらわれた単なる狂人のように思えるのですが。
    こんな狂人を野放しにして定年まで教員のままさせておいたとは、酷いことですね。
    責任者はいないのでしょうか、なぜこうなるんでしょうか。
    占領憲法の保障する基本的人権を尊重するとこうなるのでしょうか。
    そんなもの尊重していたら、学校も社会も国も壊れてしまいますよね。
    もっとも壊すためのウソ憲法ですからね・・。